異業種交流会「知新会」9月例会「楽山窯」!!
知新会の9月例会は、楽山窯の12代長岡空郷氏に
『楽山焼きと私の修行』という演題でお話をお聞きいたしました。
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhNsDYmRB87Mr_aXUrv0S5ApTbDSPo1SpeA_530bnCNJOXTjA1j6EE9j-Us_k7VyiN73JMg51dsO9sN8tKc-JmCoa6ciecIfvaKcmjyXFSbBnjYQ9EjXKaIlY8_bkrphSDSozO0cy9DHXpm/s280/IMG_3114.JPG)
このとおりとても気さくな方で
「先日の講演で早口で話しをしてしまったので夜でもあるし、
ゆっくり話をさせて頂きます」
と断わって座っての話でした。
32歳で11代長岡空権氏の三女と結婚。
33歳で陶芸の道に入り、40歳で楽山窯で空権氏と共に
作陶に励み、4年後には田部美術館大賞に入選。
48歳で12代「空郷」の号を得る。
7年間の修業時代は、「見て覚える」ことであったが
この20年この「見て覚える」ことの大切さを身を持って
体感したと仰ってました。
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パワーポイントで2年後は、松平不昧公の没後200年の
大行事があることを紹介し、
「松江は、この13席の茶会を成功させるかどうか 、どうかで
その後の50年間の松江のお茶、お菓子の評価が決まる」とも
指摘されていました。
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自らの作品も含め、茶碗を展示し、時たま席を立って
茶碗の説明をして頂きました。
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左は、俵茶碗と言われる祝いの席で多く使用
される茶碗だそうです。
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楽山窯は、萩焼の流れを継承した東のはずれの窯で
萩焼と京焼と備前の丁度中間的な場所でもあり、
それぞれの影響を受けながら偶然にも作陶集団が出来ずに
一軒だけで窯を継承してきた誠に、珍しい窯元だそうです。
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楽山焼きの窯元、長岡家の門。
京都の楽家とか永楽家は、千利休を祖とする侘び茶を
嗜む人の茶器を作陶。
楽山窯は、それに対し地元の藩主以下武士のお茶を嗜む
武家茶道の作陶をする窯である。
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先代作の陶器の表札。
茶道は、江戸時代までのものと明治以降は
随分違うものになってきた。
今日のように道具屋が出来たのは明治以降である。
長岡家は、作陶集団が出来ずに一軒で340年の歴史を誇る
全国でもまれな窯元である。
楽山窯の創設者は、倉崎権兵衛重由で5代の長岡住右衛門貞政が
松平不昧公の庇護を受けたそうです。
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形も大きさも構造も特徴的な楽山の登り窯。
槇4トンを焚きながらの1,200度の温度を保つ技術が最も
継承の重大な部分だそうです。
温度は、温度計もあるが「火の色で分かる」そうです。
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材料の土は、萩から30年に一度購入。
槇はその都度こうして年々高価になって行くが買うしかないそうです。
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萩焼の伝統を酌むので絵付けをするのにも地が白でなく
ざらざらした色のついた陶器に絵付けをするのが
楽山焼きの特徴だそうです。
周辺の窯元のことも講演終了後、お尋ねしたのですが
気さくにお答えいただきました。
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講演の最後は、何時ものように井田会長が代表して
謝辞を述べて終了でしたが、とても有益な講演でした。
最も印象に残っているのは、
2年後の「不昧公没後200年のイベントを成功させないと
その後の50年に大変な影響を与えてしまう」
と言う言葉でした。
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