2019年7月29日月曜日

松江大橋と大橋川

『白潟歴史まち歩き楽会』の7月例会。

久しぶりに参加しました。





 

講演に先立ちまして事務局長 仁田玲江先生から講師紹介。



 

「大橋川」と「大橋」の名称由来について

 
というとても興味がある演題で講師は、
 
松江市歴史まちづくり部 史料編纂課 稲田 信氏です。

 
 
パワーポイントで32枚分の資料が準備されていました。
 

 
 

 大橋川と大橋の名称はどちらが先に付いたのか?
という質問が寄せられたのが発端。

 

結論としては「大橋」は江戸時代初期から。

「大橋川」は、明治16年以降。

 
「大橋川」と言うのが意外と新しいのに驚いた!!
 
 

 

 「大橋川」についての名称由来。

大橋川は、中海と宍道湖をつなぐ水位差のない水路。

 

 
 

 国土交通省の捉え方は、1級河川 斐伊川の一部であること。

 

 
 
 「出雲国風土記」にもその風景が描かれている。
 

 
 

 中世の中海と宍道湖の間の水域イメージ。

 




 
 
地質学的には、1635年~1639年ごろに斐伊川は、東流した。
 
はたして、ほんとうなのか??
 
私が生まれ育った出雲平野は、室町時代末期の大洪水の結果
 
それまで大社方面に流れていた(斐伊川の西流)が
 
流れが変わって宍道湖に流れるようになって
 
後に出雲平野が出来た~~~と聞いていました。
 
武志町(アシやヨシがたげしげっていた)中野、高岡、平野、稲岡
 
そして川跡、平野、などその土地の状況変化に
 
呼応した住所名が今日も残っている。
 




1605年から堀尾吉晴が5年かけて松江城の築城をして次の藩主
 
京極氏が斐伊川の洪水の後の「若狭土手」と言われる築堤をしたこと。
 
そして松平直政が松江藩主となった頃にもし、
 
斐伊川が西流から東流に代わるほど(宍道湖に流れる水量が3倍になる)の
 
大変化があったとすれば当然、そのころであれば
 
しかるべき古文書や文献で紹介されているはずで
 
最後に私はそのことを質問・意見のなかで申し述べておきました。
 

 




最期の「おわりに」にも紹介されていますが
 
今日の話を聞いて感じたのは、松江の歴史を松江だけの歴史で
 
見るのではなく周辺の町村のことも含めて調査すれば
 
地質学上の宍道湖の堆積物の年代で1630年代後半に「東流」したなど
 
明らかになるはずで????という印象です。
 
 
 
まあ、こういうことが分かるのも今日のような講演を
 
お聞きしたことによるもので人の話を聞くことは大事なことと強く感じました。
 
 
 

「白潟歴史まち歩き楽会」いつもいい勉強をさせて頂けます。

 

感謝です!!


 



0 件のコメント:

コメントを投稿